「短編ドキュメンタリー」と聞いてどんな作品を思い浮かべるだろうか?
多くの人にとって馴染みがあるのは、民放テレビ局が放送している人物モノのドキュメンタリー番組だろう。ドキュメンタリー好きな方々は、ミニシアターや各地のドキュメンタリー映画祭で長編映画としてのドキュメンタリーを観ているかもしれない。しかし、短編ドキュメンタリー映画といっても、ピンとくる人は少ないのではないだろうか?私自身、ジャンルとして確立されたものというより習作という印象を持っていた。
だが、2021年で3年目を迎え、米国アカデミー賞の公認を受けた「SSFF & ASIA ノンフィクション部門」の作品を観ると、短編ドキュメンタリーには、テレビドキュメンタリーにも長編ドキュメンタリー映画にもない、独特な魅力があることに気がついた。
2021年9月15日から同部門ノミネート作品『The Game』が配信されるタイミングに合わせ、短編ドキュメンタリーの知られざる魅力を言葉にしてみたい。
『ロックアウト / LOCKED OUT』
今年の映画祭ノンフィクション部門では、世界から307作品の応募があり内12作品がノミネート作品として上映された。この12作品についてテーマと描き方の2点から考察したい。
応募された作品の多くは2020年に製作された作品。「コロナ禍」が世界を覆った時代だけあって、国を超えてコロナ禍を描いた作品がみられる。例えば『ロックアウト / LOCKED OUT』はロックダウン中のパリで生きる路上生活者を記録した24分のドキュメンタリーだ。社会全体がロックダウンされてしまったがために、ロックアウトされて忘れられた、社会の弱い箇所に光を当てる。時事という観点からはBlack Lives MatterのN.Yの街中のラクガキ記録した『壁の落書き/ Writing on the Wall』も興味深い作品だった。
『私たちの娘、エヴァ / Raising Ava Rose』
一方で、ドキュメンタリー=時事的なテーマかというと、決してその枠には収まらない。
例えば、両親の尊厳死の過程を記録したカナダのセルフドキュメンタリー『ヨセフとジッリの愛と死 / The Love and Death of Yosef and Zilli』やダウン症の子どもを持つ親へのインタビュー『私たちの娘、エヴァ / Raising Ava Rose』は、家族という、時代を超えて通じる普遍的なテーマを持っている。一つ一つは個人的な話。だがプライベートな記録を突き詰めていったところで社会との接点が生まれる。
テーマについて言えば、正直なところなんでもありだと私は思う。世の中の多くの人が当事者である「コロナ禍」のようなテーマであっても、自分と家族というプライベートな世界であっても、制作者一人一人の熱量がこもっていて、最低限の技術的なクオリティを満たしていれば、他の人が観ても面白いし、感じ考える素材になる。
『試合 / The Game』
テーマよりもユニークなのが「描き方」だと私は思う。長編のドキュメンタリー映画にしろテレビドキュメンタリーにしろ、描かれ方は「ストーリー」を軸にした作品が大半だろう。一方でノミネート作品では「映像」を軸にした作品が光を放っている。
代表的な作品が今回、Brillia SHORTSHORTS THEATER ONLINEで配信する『試合 / The Game』だ。スイスの映画だが、舞台はドイツのサッカースタジアムだろうか?主人公は何万という人間の注目が集まる真ん中で、ゲームを仕切る主審の男性。試合が始まり終わるまでを、フィールド、スタンド、解説者などの前にカメラを置いて1本の映像に編集している。観ていただければわかるが、とにかく臨場感に圧倒される。長編で描くとしたら主審の生い立ちや仕事にかける情熱や迷いをストーリーとして描くのだろうが、17分の短編ではギュッと縮めて映像を中心にして描き切る。地鳴りのようなサポーターの応援、主審の真剣な表情と汗。選手との鍔迫り合い。カットはそれらで十分だ。主審の人物としての背景は自ずと観る側が想像する。無駄なカットを極限まで削いだ、言うなれば俳句のような表現だ。
『サービスの踊り / The Ballet of Service』
オランダの『サービスの踊り / The Ballet of Service』も、映像を軸にした作品だ。ヨーロッパの伝統的な洋館で開講されている執事になるための専門学校が舞台。東南アジアから子どもを残してやってきた女性の生徒や、70代と思われる高齢の生徒、癖の強そうな講師。おそらく、人物に焦点を当てたテレビドキュメンタリー的な作り方は成立するだろう。だが、あえてそうしないのがユニークな点だ。洋館の美しさ、サービスの踊りともいえる一糸乱れぬ美しい所作。それらを美しい映像とカメラワークで描き、映像としての面白さに引き込まれる。かつ、映像にこだわると人物もインタビューとは別の形で浮かび上がってくる。そしてここでも、観る側に想像する余白を残している。
もちろんオーソドックスな作りの作品もあるが、短編ドキュメンタリーの中には、今までに観たことのないような斬新な表現の作品があるのは事実だ。
『ヨセフとジッリの愛と死 / The Love and Death of Yosef and Zilli』
学生時代、ドキュメンタリー史の授業を受講したことがある。その時に、大島渚の『忘れられた皇軍』や土本典昭の『ある機関助士』など1960年代の作品を知った。当然ながら当時のドキュメンタリーは、フィルムで撮影がされていた。フィルムが高価で有限であったために、撮影に入る前に入念に台本を作成し、フォーカスを合わせるためにカメラと対象者との距離を巻尺で測って、監督のキュー出しとともに記録を始めていたそうだ。もちろんカメラ位置は固定だ。
デジタルビデオカメラが普及して、尺を気にせず回すことができるようになり、ドキュメンタリーはビデオジャーナリズム的な使われ方をするようになった。セルフドキュメンタリーのような表現形式が生まれた点は小型化の恩恵と言える。機動力が高くなり気軽になるのは良いが、その過程で失われたものもある。考えてから撮るのではなく、撮りながら考える。長さはより長尺へと変化し、表現は詩的なものから散文的なものへと変わっていった。作家性によって構築される映画なるものとドキュメンタリーとの間に乖離が生まれていったのではないか。個人的な見解だがそのように思う。
その意味で、近年の短編ドキュメンタリーは、ドキュメンタリーの原点回帰とも言えるし、新たな表現が生まれるフロントラインとも言える。現実に素材をとりながらも、監督の感性において再構築をし、ユニークで豊かな表現を生み出している。短編を撮ることは、ドキュメンタリー監督たちが作家性を養う訓練になるかもしれない。今後もノンフィクション部門に注目したい。
Writer:大竹 悠介(おおたけ・ゆうすけ)
「ブリリア ショートショートシアター オンライン」編集長。大学院でジャーナリズムを専攻した後、広告代理店勤務を経て現職。「映画体験の現代的な価値」をテーマに全国の取り組みを継続取材中。
Twitter:@otake_works