土地や気候、育て、醸造する人の気持ち。
その味わいの中に感じられる個性的な表情は、ショートフィルムの世界と似ています。
作り手はどんなことを考えていたのか、その年はどんな年だったのか—。
このコラムでは、そんなことを思い浮かべながら、ワインとショートフィルムのペアリングを、ワイン専門店エノテカの広報、佐野昭子さんに紹介いただきます。
ショートフィルムのストーリーと、ワインの香りや味わいが織りなすひと時をお楽しみください。
9月のBSSTOでは、宇宙月間に迷い込む「My Strange World」と題し、自分の中の不思議な世界を描く作品が配信されています。いずれも、幽霊や主人公の幻想が入り混じる、不思議な世界観をまとった作品ばかり。とはいえ、決してホラー映画ではありません。登場人物たちが見つめているのは「死」そのものではなく、過ぎ去った時間や、消えたはずなのに残り続ける記憶です。
街を歩いていると、ふと昔の出来事を思い出すことがあります。もう存在しない店。遠い日に交わした会話。いつしか会わなくなった人。それらは見えないけれど、確かにその場所に残っている。
今月の特集が描く“ゴースト”とは、亡霊ではなく、私たちの中に生き続ける記憶そのもの、彼らの心の中の風景なのかもしれません。過去に囚われるためではなく、過去とともに生きるために。今月は、見えなくなったものがそっと息づく、そんな不思議な世界の扉を開いてみてください。
今月の特集に合わせて選んだのが、トスカーナのワイナリー、イル・ボッロのワインです。イル・ボッロは、何世代にもわたって受け継がれてきたワイナリーではありません。ファッションブランドとして名高いフェラガモ家が1990年代にこの土地を取得し、そこから新たな歴史を築き始めました。だからこそ、この造り手の魅力は「過去を守ること」だけではなく、歴史を受け継ぎながら、そこに新しい価値を加えていくことにあります。それは、映画が問いかけていることにも重なります。私たちは記憶を抱えながら、新しい時間を生きていく――イル・ボッロのワインを飲むと、そんなことを思います。
なかでも選びたいのが「ボッリジアーノ」。その名前の意味は、“イル・ボッロ村の人”。中世から人の営みが続き、一度は無人同然となりながら、いままた人の声が戻ってきた村。そこで生きた名もなき人々の気配を、そのまま名前として引き受けたワインです。グラスの中にあるのは、今この瞬間のワイン。でも、その背後には土地の歴史や人々の営み、受け継がれてきた風景があり、その物語は今も続いています。見えなくなったものは消えたのではない。形を変えながら、今も私たちの中に生き続けているのだと、この一杯が教えてくれます。
中世の面影を残す美しいイル・ボッロ村
イル・ボッロがあるのは、トスカーナ州、アルノ川上流のヴァルダルノ・ディ・ソプラ。1993年、フェルッチオ・フェラガモ氏が中世から続く「イル・ボッロ村」と一帯を取得し、荒廃していた村を、ワイナリー、ホテル、レストランを軸に丸ごとよみがえらせました。2015年には全区画でオーガニック認証を取得し、現在は3代目のサルヴァトーレ・フェラガモ氏が指揮を執っています。

イル・ボッロCEOのサルヴァトーレ・フェラガモ氏
この谷は、1716年にトスカーナ大公コジモ3世が原産地を定めた由緒ある産地。標高350~500mの土壌には、はるか昔ここが湖だった頃の貝の化石が今も眠っています。「ボッリジアーノ」はサンジョヴェーゼを主体に、小樽ではなく大樽でじっくりと熟成させた1本。ラズベリーやチェリーのみずみずしい香りに、白コショウやジンジャーのニュアンス。柔らかなタンニンと、どこまでも軽やかで澄んだ佇まい。少し低めの16℃前後に整えて、静かな夜にゆっくりと味わってみてください。

イル・ボッロのセラー。トスカーナの大地が育んだワインが、静かに熟成の時を重ねる。