ログイン
MAGAZINE
INTERVIEW
Mar. 22, 2019

【FRONT RUNNER】八ヶ岳山麓で35年続く野外映画祭の魅力とは?
~「星空の映画祭」実行委員長・武川寛幸さん~(前編)

本州の真ん中、八ヶ岳山麓に位置する長野県原村は、1970年代から別荘地として開発が進んだ高原の村だ。その原村の八ヶ岳自然文化園を舞台に、毎年夏休みの時期に約3週間にわたって開催されているのが「星空の映画祭」だ。
特徴は何と言っても開催の歴史。1984年に地元有志が立ち上げ、一度中断したものの運営メンバーが世代交代をして復活。今年でスタートから35年になる。子どもの頃に屋外上映に親しんだ人たちが、現在は担い手として映画祭を支える。地域で手作りの映画祭を開催するその先に、地元への愛着や忘れられない映画の原体験が育っているようだ。「星空の映画祭」を知ることは、映画体験の今後を考えるうえでもきっと役立つのではないだろうか。今回は「星空の映画祭」実行委員長の武川寛幸さんに話を聞いた。

「星空の映画祭」開催風景 ©星空の映画祭実行委員会

1984年、ひとりの男性が夢を形にした野外映画祭

星空の映画祭は1984年に八ヶ岳の原村で誕生した映画祭とのことですが、発足の経緯からお伺いしてもよろしいでしょうか。

武川
開催地は長野県諏訪郡原村というところなんですが、標高が1300mくらいのところで、八ヶ岳の登山口が近くにあったりします。高原で野外で楽しむ映画祭ということで開催しています。1984年に地元の有志によりスタートしましたが、この原村に住んでいる柳平二四雄さんという方がいらして、この方は不動産を営んでいたのですが、その傍らで町おこしのイベントをやっていたようです。たとえば子ども向けの釣り教室だとか、屋外で結婚式をするとか、そういうことをやっていらしたようなんですね。
で、たまたま84年公開の『風の谷のナウシカ』を劇場で観て、えらく感動されたと。映画の持つテーマも含めて、これは狭い閉じ込められた空間ではなくて開けた野外で観られるべき映画なんじゃないかと思い立って企画を作られたそうです。場所はもう決まっていたらしいんですよ、原村の原っぱがあるところ、そこがいいと。でも映画を上映するにはどうしたらいいんだろう。何のコネもないので一番近くの茅野市の駅前に茅野新星劇場という映画館があるんですが、夜にアポなしで電話して、こういうこと考えているんだけどということを相談したと。

武川寛幸さん

それを受けたのが館長の柏原昭信さん。なかなかそんな無茶な話をしてくる人はいないので一度は断ったみたいなんですけれど、「まず場所を見てほしい」と柳平さんに押し切られて翌日原村に行ったそうなんですね。すると、柏原さんもその場所を見て感激して、やってみるかということで始まったと聞いています。

柳平さんのなかで、映画を観たときにあの場所がぱっと浮かんだんですね。会場となる自然文化園というのはどういう場所なんですか。

武川
発足した当時は自然文化園というのはなくて、原村が管理するクアパークという公園だったそうです。パターゴルフ場やプラネタリウムを備えた自然文化園ができたのがもうちょっと後で、89年のことです。

現在の野外ステージができたのは89年のことなんですね。

武川
そうです。それまでは原っぱのようなところで、手作りでやっていたみたいですね。

柏原昭信さん ©星空の映画祭実行委員会

星空の映画祭で観た『ジュラシック・パーク』が映画の原体験になった

そのころ武川さんは観る側で行っていたんですか?

武川
そうですね。数はそんなに多くないんですけれど何回か行きました。初めて行ったのは立ち上げから少し後ですよね、中学1年生の頃だったので1994年とか。『ジュラシック・パーク』を上映していて。

武川さんの地元もそのあたりだったんですか?

武川
私は隣の隣の岡谷市というところですね。恐竜が大好きな少年だったので「岡谷スカラ座」っていう映画館で、『ジュラシック・パーク』だけで4~5回観に行っていたんですよ。ひとりで。

同じ映画を何回も?

武川
とにかく恐竜が動いているって言うのに感動して。で、早くビデオが出ないかな、家でもっと観て研究したいって。そのくらい好きで観ていたんですけれど、「原村の星空の映画祭っていうのは野外映画祭である。そこで『ジュラシック・パーク』を上映する」って聞いていてもたってもいられなくなって。映画館で観るのとは何か違うことが起きるんじゃないかっていう、子どもながらに何か期待感というかワクワク感があって、家族を説得して連れていってもらいました。

行ってみてどうでした?

武川
もうドンピシャで。素晴らしかったですね。忘れられないですよね。

映画館で観るのと屋外で観るのって、体験の質としてどういう風に違っていましたか?

武川
とにかく怖かったですね。怖かった。

リアリティがあるというか?

武川
これは映画祭の魅力の一つなんですけれど、やっぱり大自然が与えてくれる自然の演出が本当に大きいと思いますね。

その辺から恐竜が出てくるんじゃないかとか。

武川
そうなんですよ。いかに自然の演出とマッチングするかが重要で、作品選定の上でも大事にしているところですよね。

映画祭の中断、そして動き出した若い世代

長く続いてきた映画祭でしたが、2006年に休止しました。そのあたりはどういった経緯があったのでしょうか?

武川
主催者である柳平さんと柏原さんの高齢化が理由ですね。特に組織や会社でもなく、地元の学生なんかをアルバイトで雇ったりした以外は、ほとんど二人だけでやっていた映画祭なんです。あとはバブルが終わってスポンサー企業がつかなくなった。森林伐採の影響で天候が変わって雨が多くなったのも大きかったみたいですね。

それで、休止が4年ほど続いていて、2010年に武川さんとお仲間で復活させることになるんですよね。

武川
私ともう一人、原村出身の秋山良恵さんという方とふたりで「どうにかできないか」っていう話をして、どんな方がやっていたかも全く知らなかったので、まずは柳平さんと柏原さんに会いに行ったんです。

そもそもなぜ復活させたいと思ったんですか?

武川
なんででしょうね。なんかね、若かったし(笑)。20代真ん中くらいでしたから。

『ジュラシック・パーク』を観たことがよみがえってきて、みたいな?

武川
なんでしょうね。私と秋山さんは「吉祥寺バウスシアター」という映画館で一緒に働いていたんですけれど、秋山さんが実家に帰るというタイミングだったんです。秋山さんには映画館で働いた経験を活かして原村で何かやりたいという思いがあって、そこで映画祭の休止を知って、復活できないかっていう話をして、なんとなく直感で、できるんじゃないかって。自信だけはあったんですよね。

秋山さんから武川さんに手伝わないかとお誘いがあった。

武川
そうですね。そそのかされて(笑)

それを聞いて面白そうだと思った?

武川
もちろん子どものころから行っていましたし、興奮しましたね。原村が主催していたのか、自然文化園がやっていたのか、どっかの配給会社がやっていたのか、なんかいろいろ想像しながら行ったら、なんのことはない地元のおっちゃんがやってたということにまずびっくりして、それが何十年も続いていたことにさらにびっくりしました。で、何十年ぶりにその会場を訪れて、そうしたらもう使われなくなった映写小屋があって、中を覗いたら映写機がそのまま放り出されてたんですよね。「もったいない、やりましょうよ」って。

近年増えてきたキャンプ場で映画を観ましょうみたいなイベントとは違って、屋外に映画館がそのままポンってある感じなんですね。

武川
そうなんです。屋根のない映画館があるっていう。「星空の映画祭」って野外なんですが目指しているのは映画館なんですよね。だから巨大な装置でフィルムがぐわんぐわんと回ってて、スピーカーもちゃんと木に結び付けて5.1chで音は出ますし、ちょっとくぼんだ所なんでしっかりと反響しますし。上映環境としては茅野新星劇場さんがやっていることで映画館と全く遜色がないんですよ。

©星空の映画祭実行委員会

地方で映画興行を行う難しさとは?

柳平さんを見つけて、柏原さんを見つけてっていう感じで復活させていったと。復活させてくれと頼みに行ったような感じなんですか?

武川
そうです。まさか自分たちでやるっていうんじゃなくて、復活してくださいって、何ならお手伝いしますからっていう話をしに行ったところ、「いや、お前たちがやれ」と。

その心はどういうことだったんでしょうね。

武川
まあ、なんでしょうね。「君たちみたいな人が来るのを待ってたんだよ」って言われて、それで取り込まれちゃいましたよね。世代交代だって。それは柳平さんの言葉なんですけれど。
一方で柏原さんは難しい顔をしていました。やっぱり地方の映画館がどんどん潰れていった時代ですし、現にその茅野新星劇場さんも初めて行ったときには映画を上映していなかったんですよ。時間はちゃんと11時の回って書いてあるのに、場内の明かりがついていて扉がバーンて開いているから「どうしたんですか?」って訊いたら「客が来ねえからやってねえんだよ」って。「こんな状況ではお願いもできないし、やってもお客さんは来ないかもしれない」って、そこで初めて自分の地元の映画興行の難しさを目の当たりにして愕然としました。

地方の映画興行の難しさって何が原因だと思いますか?

武川
生活モデル、スタイルが変わっているっていうのが一番大きいですよね。昔の映画館っていうのは駅前だったり商店街の中にあったりするんですけれど、やっぱり人が郊外に住み始めて、車社会になって、そもそも駅前に人がいない。商店街に人が集まらない。かつ駐車場がないんですよね。車が停められない。
あとスクリーン数ですよね。だいたいワンスクリーンとかでやっていくのが本当に大変ですよね。シネコンが主流になってくると選択肢が増えるんです、10本1か所で観ることができて、さあどれにしようかって選べる。その点、ワンスクリーンの劇場だと当然1作品しかできない。今はいろいろ工夫して、2本立て、3本立てでABCABみたいに3本時間を分けて上映するっていうこともやっていますが、当時はそういうのも契約上許されないところがあって。
例えばなんでしょう、ティム・バートンの映画を出すけど、条件は1日4回やってくださいとか。するともう1本しかできないですよね。なかなかワンスクリーンで駅前で人が集まらないところで同じ映画を1日4回やっても生き残っていけないっていう。

復活の経緯の話なんですけれど、柳平さんからはやってくれと言われて、柏原さんからは難しい顔されて、そこで「よし引き受けよう」となったのはどういう心境だったんですか?

武川
まず現地に行ったということですよね。会場の跡地に行って、機材が全部残っているということにまず可能性を感じました。それから、柏原さんの気持ちが変わったのは、いわゆる業界の話ですごく盛り上がったからですね。例えば機材は何を使っているとか。アンプの種類とか、スクリーンの素材とか、スピーカーはどこにつけてたとかシネスコの画もできるんですかとかテクニカルな話で柏原さんと熱く盛り上がって。おそらく柏原さんもそういう話をする人が周りにいないので、柏原さんを乗せたというか(笑)

この人たちだったら任せてもいいかなあという気持ちにさせたということなんですかね。

武川
「まあ、じゃあ失敗してもいいから一回やってみるか」と言ってくださって、トライアルということでとりあえずやってみようかと。

後編につづく。3/26(火)公開予定です。

取材:大竹 悠介
撮影:吉田 耕一郎

武川 寛幸(むかわ・ひろゆき)

「星空の映画祭」実行委員長。長野県岡谷市出身。2001年から14年の閉館まで「吉祥寺バウスシアター」に勤務。番組編成や宣伝業務を務めた。共著として『あたらしい「路上」のつくり方』(DU BOOKS)がある。現在は都内映画館に勤務。

Writer:大竹 悠介(おおたけ・ゆうすけ)

「ニューシネマサミット」を主催した「ブリリア ショートショートシアター オンライン」編集長。大学院でジャーナリズムを専攻した後、広告代理店勤務を経て現職。「映画体験の現代的な価値」をテーマに全国の取り組みを継続取材中。ショートショートではWEBマネージャーやクリエイターコミュニティの運営を兼務。
Twitter:@otake_works

Share

この記事をシェアする

Related

0 0
記事一覧へ